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三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

作品やコンテンツの面白さとは何か


私は読書録を書いていくうちに、その作品がなぜ面白いのか、なぜつまらないのかというのがある程度自分なりに説明できるようになってきたので、まとめておくことにする。ここでいう面白さというのはコメディの笑いのことではなく、小説や漫画や映画やゲームなどのあらゆる作品のコンテンツとしての面白さのことである。

●面白さについての議論の未熟さ
小説に関する論文は数多く書かれているけれど、文学部では作品の象徴がどうだのフェミニズム思想がどうだのと難しいことを論じていて、小説の面白さは研究対象にならない。面白さは読者個人の主観的なものであり、客観的に検証できるものではないからである。小説の後ろに学者や批評家の解説文が載っていたりするけれど、どこがどう面白いのかよくわからないような褒め方をしていて参考にならないことが多い。プロの批評家は宣伝として本を売るために面白さについては論じることもあるけれど、つまらなさを指摘すると業界にいられなくなるのでつまらなさの指摘はあまりしない。amazonのレビューでもおもしろい、つまらないというだけの短文の主観的なレビューが多い。というわけで、どこがどう面白いのか、どこがどうつまらないのかを具体的に論じているような批評はあまり多くない。作品についての感想自体は多いけれど、ファンとアンチがお互いを全否定する感情的な罵り合いになって議論になっていないようなのをよく見かける。
掲示板だと「○○はもっと評価されるべき」という意見をしばしば見かけるけれど、評価されるべきと言っている本人でさえどこがどう面白いのかと具体的に言えない有様で、もっと評価されるべきといったところで評価しようがない。人気作品をつまらないと言おうものなら、じゃあお前が作ってみろ、いやなら見るなという批判封じの呪文が飛んできて議論にならない。いまどきの若者は打たれ弱いのか、批判されたら過剰反応してじゃあもう感想は言わないとすぐ自分の意見を引っ込めてしまう人もいた。インターネットが普及して誰とでも意見交換できるようになったのに、議論に役立たないのでは宝の持ち腐れである。
構造主義的に面白さの構成要素を抜き出してみれば、どこがどう面白いのか、どうつまらないのかを要素ごとに議論しやすくなるのではないかと思うのだけれど、面白さの分析をしているような論文がどこにあるかわからないので、とりあえず自分で考えてみた。

●面白さとは刺激である
子供の遊びとかを見るとわかりやすいけれど、面白い遊びは危険を伴うことがある一方で、安全な遊びは退屈だったりする。そこで安全性を担保したうえで刺激を提供することがエンターテイメントビジネスになる。例えば遊園地のアトラクションは安全性を担保したうえで普段は体験できない変な乗り物の刺激を楽しませるし、プロレスは観客を避難させてから場外乱闘を始める。それでも直接体験できる人数には限りがある。そこで直接体験するのは危険だったり金や手間がかかりすぎたりする刺激を、紙や映像というメディアを媒介して安全で安くて手軽な刺激として商品化して、大勢の客に追体験させるのがコンテンツビジネスである。例えば殺人事件に当事者として巻き込まれるのは誰でも嫌だろうけれど、小説やドラマというコンテンツなら犯人を推理したり殺人鬼に慄いたりしながら安全に殺人事件を楽しむことができるようになる。
コンテンツビジネスは日本の文化ともいうべき産業だけれど、なぜ人間がお金を払ってまで面白い作品を求めるかというと、人間の脳はオーバースペックすぎて無為や単純作業の退屈な状態に耐えられないので、退屈しのぎに何か新しい刺激が欲しくなるのである。刺激に慣れてしまうとそれが退屈になってまた別の刺激を求めるようになり、もっと面白いものを欲するようになる。たとえ傑作があっても客がそこで満足せずにもっと面白いものを求めて、続編が次々と作られて、マンネリ化してシリーズ自体が飽きられるとまた別の作品を探し始める。他の作品との刺激の差異が芸術を芸術たらしめて、面白さを提供するわけである。その刺激の差異の積み重ねで、現代の作品は昔の作品よりもずいぶん面白くなっている反面、新しく面白い作品を作るのが難しくなっている。

●面白さの要素
・芸術的要素:真善美を追求する深い物語、エロス/タナトスのテーマ、反体制や社会的なメッセージ
・感情的要素:幸せ、不幸、共感、反感、愛情、嫌悪、怒り、恐怖、空しさ、楽しさ、嫉妬、焦燥、葛藤などの複雑な感情を刺激する、魅力的な登場人物
・知的要素:新奇性、謎の解明、予想外の出来事、戦略性、結末への期待感、好奇心を刺激する、情報価値がある
・技術的要素:高度な創作技術、凝った構図や演出、世界観の一貫性や多様性、最新技術の使用
・作家的要素:作家独自の思想、感性、体験

●つまらなさの要素
・芸術的要素:真善美を追求しない浅い物語、テーマやメッセージがない
・感情的要素:陳腐な感情をあざとく刺激する、無感情、魅力がなく印象に残らない登場人物、作者の操り人形的で動機や思想がない不自然な登場人物
・知的要素:既視感がある、内容や結末の予想がつく、戦略性のない作業ゲーム
・技術的要素:絵や文章が下手、世界観が構成できていない、プロットが矛盾して破綻している、ご都合主義で辻褄合わせをしている、ゲームにバグがある
・作家的要素:没個性的、パターン化、ハンコ絵、テンプレ展開、パクリ

●面白さの構成方法
面白さの構成要素のうちのどれかひとつの要素だけでは面白くならない。たとえば真理に関する話としてピタゴラスの定理の話をしても、数学に興味がある一部の人以外には面白くない。そこでピタゴラスの生涯の話とピタゴラスの定理の話を組み合わせると、ピタゴラスがどいう苦労をして定理を発見したのかという感情的要素が加わる。人間が介在するということはそこに感情的要素が必然的に加わることになり、つまり人間を介在させたり、アニメの『はたらく細胞』のように人間でないものを擬人化して物語化することで、あらゆるテーマが面白い話になりうる。だからこそたいていの物語は人間についての物語なのである。そうやっていろいろな要素を盛り込んで、物語は面白くなったりつまらなくなったりする。面白さの要素とつまらなさの要素のどちらが多いかで、欠点がちょっとあるけど面白い作品とか、万人受けしないけど個人的にすごく面白い要素がある作品とか、面白さの種類が変わってくる。

・芸術的要素
読者はその作品を見てなんの役に立つのか、お金を出す価値があるのかと疑問に思っている。知らなかった真実を知ったり、善について考えを深めるきっかけになったり、新しい美的感覚を知ることができれば、それは面白いといえる。漫画や映画では他では見たことがないような絵や映像を提供すれば、その美的刺激が面白さになる。あまりわかりやすい面白さの指標ではないものの、他の要素と組み合わせると味わい深い物語になる。真善美を含まない作品は暇つぶしにはなるだろうけれど、芸術にはなりにくい。

・感情的要素
あらゆる物語は人間の物語なので、何かしらの人間と、その感情が描かれている。登場人物の設定で他の作品との差異を作って、それを面白さにつなげるのが小説や漫画などのエンタメ作品の基本になっている。天才高校生探偵とか大富豪刑事とかのキャラクターの個性は面白さとしてはわかりやすい反面、キャラ設定頼みの小手先の工夫ではすぐに飽きられてしまうし、海パン刑事とかの突飛過ぎるキャラクターだと感情移入できなくなってしまう。
感情は誰にでも理解できる普遍的なものあるがゆえに、読者は登場人物に感情移入して物語世界を楽しむことができる。恋愛小説の主人公に感情移入して現実世界ではありえないような恋愛感覚を楽しんだり、ホラーゲームの主人公を操作して殺人鬼やら悪霊やらに追われて恐怖感覚を楽しんだりする。
つまりは物語の登場人物が魅力的で、感情表現が豊かなほど物語は面白くなる。各ジャンルはそれぞれ違う感情表現の方法があって、小説家は心理描写で感情表現をするし、漫画家は表情の描写、特に目の描写にこだわって外面的な感情表現をするし、演劇だと表情とせりふとしぐさのすべてが感情表現になる。感情表現の方法が違うゆえに、漫画のノベライズや漫画が原作の実写映画ではストーリーが同じでも違った魅力を引き出しうる。
円城塔とかの学者上がりの小説家が書く小説がたいていつまらなかったりするのは、論文を書くように理詰めで話作りをして人間の感情を考慮していないからだろう。ミステリでは人間が書けていないという批判もよくあるけれど、プロット優先で登場人物が駒や記号のように扱われると無機質で感情的要素がなくなって面白くなくなる。

・知的要素
小説や漫画や映画などのエンターテイメントはプロットに工夫を凝らしていて、物語の終わりまで読者の興味を維持するように計算されて作られている。物語の続きがどうなるのか、結末がどうなるのか知りたいので、読者は連載を読み続ける。知的要素は面白さとして一番わかりやすい指標になる。
ミステリー小説は新しいトリックを見所にして、SFはタイムとラベルやタイムリープやクローンや宇宙船などの新しいギミックを見所にする。あるいは医療や消防や警察や宇宙飛行士や棋士や漫画家など、一般人が知らない特殊な業界をテーマにした作品も知的好奇心を満たす。
ボードゲームやカードゲームでは純粋に知的要素の戦略性の面白さしかなく、他の面白さの要素を含まなくても十分に面白い。ゲームの戦略の面白さに物語性を加えるとシミュレーションRPGになるし、感情を加えると恋愛シミュレーションゲームやホラーゲームになって、さらに面白くなる。小説や漫画などはひとつの完成した作品を提示するのに対して、ゲームはランダム性や運要素を含ませることが独自の面白さになる。たとえば『風来のシレン』シリーズのようなローグライクゲームはダンジョンやアイテムが毎回ランダムに作られるので、何度ダンジョンに行っても毎回状況に応じて戦略を変える必要があって新鮮で飽きにくい。対戦カードゲームは最初にドローするカード次第でその後の戦略が変わるし、デッキの組み方に自由度があるので様々な戦略を立てられて飽きにくくなる。PUBGやフォートナイトなどのサバイバル型のオンライン対戦ゲームだと、落ちているアイテムがランダムで、毒エリアの位置もランダムなので、ユーザーのゲームのうまさだけでなく運要素も重要になって毎回違った展開になって飽きにくくなる。

・技術的要素
小説や漫画ではプロットの知的要素が面白さの一番わかりやすい指標になる一方で、現代では面白いプロットのパターンはやりつくされていて、工夫なしでは既視感がでてしまって陳腐化するのが早い。そこで工夫の余地があるのが技術的要素である。どう創作しても既視感がある物語ができるのなら古典だけあればいいのかというとそうではなく、新技術が開発されるたびに古典作品ではなしえない面白さが生まれる可能性がある。
文章や絵の基礎的な技術は面白さの最低基準で、プロの作品として金をとるからにはプロとしての技術的完成度が要求される。『進撃の巨人』の一番の問題は絵が致命的に下手というところで、あの絵じゃどんなストーリーでも読む気がしないという人もいるだろう。『彼岸島』は設定にいろいろおかしいところが多くて、いくらシリアスな展開を書こうがもはやギャグ漫画扱いされている。
映画は映像の加工編集技術が進歩しているので、2Dアニメを3Dにしたり、モノクロ映画をCGを使ってリメイクするだけでも新しい表現手法が新しい面白さになりうる。アクション映画は昔は殴りあったり銃でドンパチするだけだったのが、ワイヤーアクションやらモーションキャプチャやらCG合成やらの技術のおかげで生身の人間には不可能な派手な動きを表現できるようになって、それが新しい面白さにつながっている。撮影もフィルムカメラよりデジタルカメラが主流になって、予算の都合で高いフィルムを無駄遣いできないから妥協するということもなくなる。
絵画では壁画の落書きみたいなのから、遠近法で奥行きが出て、スフマートで輪郭が変化して、さらにはコンピューターグラフィックが登場してドット絵から3Dにまで絵の技術が進歩した。漫画では製作がデジタル化して色がつくようになり、『GANZ』や『つぐもも』のように3D技術を使って精確な描写ができるようになって、スマホ対応のウェブ漫画では縦スクロールするようになってコマ割りも変わって、それは新しい表現として新しい面白さになりうる。
小説では近代の文学理論の発展とともに新しい小説が生まれてきたけれど、なかなか新しい文学理論は登場しないので、基本技術を押さえた上で技術以外のところで工夫が必要になる。
ゲームでは技術の進歩がゲームの面白さに直結していて、ハードウェアの性能が向上していくにつれてソフトに詰められるデータの上限が更新されていき、いまではソフトをインターネット経由でダウンロードできるようになって数十ギガの大作パソコンゲームやVRゲームが家庭で遊べるようになった。データ容量が多いということはその分シナリオやグラフィックが充実しているわけで、ファミコンのドット絵がスクロールするだけのゲームに比べてオープンワールドを動き回れるようになってゲーム性の幅が出たぶんだけ面白くなっている。
作品のテーマが同じでも実世界の技術的進歩を作品に取り入れることで先行作品との違いを面白さにすることもできる。『CSI:科学捜査班』は科学捜査をドラマに取り入れてそれまでの刑事の感で犯人をみつけてドンパチやる刑事ドラマとは違った科学捜査の面白さがあるし、囲碁や将棋をテーマにするにしてもコンピューターや人工知能を物語に取り入れると先行作品とは違った展開になりうる。

・作家的要素
似たような物語でも、特定の作家の作品だからこそ面白いという場合がある。たとえば戦争小説は無数に作られたけれど、ノーマン・メイラーの小説よりもヘミングウェイの小説のほうが作家独自のニヒリズムの特徴がでていてその分面白い。
ミステリにしても、刑事モノのミステリは国家権力が組織で捜査する右翼的ミステリであり、探偵モノのミステリは私立探偵が自由に捜査する左翼的ミステリであり、同じ事件を捜査するにしても作家の思想によって作品の中身は変わり、その作家性の差異が面白さになる。
ヒット作を真似ただけの作品は作家性がなくなり、なおかつプロットにも既視感があるので、あまり面白い作品にはならない。

・総合的な面白さ
これらの面白さの要素がいくつか組み合わさると、総合的に面白い作品になりうる。たとえばただ探偵が推理して謎をてきぱき解決するだけの知的なミステリーよりも、探偵と犯人との恋愛要素があって感情を刺激するほうが面白いかもしれないし、探偵が死とはなんぞや、愛とはなんぞやと哲学的なことを考え出して芸術的要素があればもっと面白いかもしれない。既存の作品の面白さを分析してみて、足りない面白さの要素を加えればもっと面白い作品になる可能性がある。
面白さの要素が多いほど面白いものの、作品が複雑になりすぎると逆に理解しにくくなってつまらなくなくなりかねない。フランス出身のパティシエのエベルレ・ベルナールさんは「ワタシが日本に住む理由」というテレビ番組で味は2つまで、色は3色までと言っていたけれど、ケーキのような小さい作品はテーマを絞らないと視覚や味覚の焦点がぼやけて食べたときの印象が薄れてしまう。うな重とショートケーキとカレーをまぜれば3倍おいしくなるわけでないように、お互いに相性が悪い要素もあるので、どんな面白さの要素でも混ぜれば無条件で面白いものになるというわけではない。短編では面白さの要素を絞って狙いをはっきりさせて読者の印象に残す必要がある一方で、長編では面白さの要素を複雑に組み合わせる統一性が必要で、短編と長編では必要な構成能力が違うので、短編が得意だけれど長編がかけない作家とか、その逆とか、作家によって得手不得手がでてくる。その面白さの要素を取捨選択して総合的な面白さの方向性を決めるのが作家や編集者や映画監督のセンスで、そのセンス次第で最終的な作品の面白さの方向性の違いが出てくる。

●ヒット作の評価が割れる理由
ヒット作が出ること自体は業界の活性化につながってよいけれど、しばしばヒット作の評価が割れてファンとアンチの大激論になってぎすぎすしてしまう。大人が漫画やアニメを鑑賞するのが一般化したことがヒット作の評価が割れる理由だと私は思っている。
かつては漫画やアニメやゲームは子供の娯楽、小説や映画はR18+な表現を含む大人の娯楽として、作品の対象年齢層が区別されていた。子供向けの娯楽作品は一定の評価を得やすく、評価が割れることはない。というのもどの子供も義務教育で学校に行って同じ知識を得て、その時代に流行っているゲームやアニメを見て同じ作品を鑑賞して、同年代の子供と似たような人生経験しかない。だからある子供が面白いと思うものは、ほかの子供にとっても面白いのである。たいていの男児は仮面ライダーやポケモンやガンダムが好きで、たいていの女児はプリキュアやセーラームーンやディズニーアニメが好きである。
本来は子供向けだった少年漫画が人気作品の連載を長期化するようになって、読者が大人になっても少年漫画を読むようになり、クールジャパンの推進で漫画やアニメがマニア向けの趣味ではなく一般的な日本文化として認知されて、少年や青年向けの漫画やアニメを大人になっても普通に見るようになった。そこで同じ作品でも読者の年齢や人生経験によって面白さの感じ方が違ってくることになる。つまりは面白さは作品自体の本質的な面白さだけでなく、鑑賞する個々人の感受性に左右される。
子供にとっては難しい物語ほど理解できないのでつまらなくて、簡単な物語ほど面白い。一方で大人はもっと面白い物語を求めて様々な作品を鑑賞して、人生経験を重ねていくにつれて、簡単な物語は刺激が乏しくて既視感があってつまらなくなってしまい、もっとプロットが複雑でテーマを深く掘り下げた物語を面白いと思うようになって、目が肥えていくほど満足のいく作品は少なくなっていく。
ヒット作は作品の完成度と客の満足度の相関が子供と大人の中間ぐらいの作品が多く、わかりやすく感動するストーリーで大多数の中高生とある程度の大人は満足するがゆえに流行するものの、目の肥えた少数の大人には傑作というほどでもない作品が本来の実力以上に話題になっていることが気に食わなくなる。そこでヒット作品の評価が割れることになる。
ヒット作だからといって必ずしも傑作とは限らないのだけれど、自分が面白いと思ったものが他の人からつまらないと言われると、自分の感性が馬鹿にされているようで、むきになった反論をしがちになる。こんなに売れているじゃないか、つまらないなら売れないはずだ、これより面白い作品があるならなんでそれは売れていないんだという議論になりがちになるけれど、売り上げと面白さを結び付けてしまうと議論が間違った方向に向かう。一番売れているものが一番いいという風に考えてしまうと、マクドナルドのハンバーガーはすきやばし次郎の寿司よりもいい食事ということになり、広告収入が多いまとめサイトは売れない百科事典よりも信用できるソースというようになってしまう。
売り上げと面白さを関連付けるのではなく、「誰にとって」面白いのかを考えないと、ある作品が面白いか否かという議論に決着がつかない。「あなたにとって」の傑作は「私にとって」は駄作なのであり、こういう理由でつまらないのだときちんと説明できなければいけない。逆に「私にとって」の駄作を面白いという人には、なぜ面白いと思うのかを説明してほしい。私はこのブログではたいていの小説をボロクソにけなしているけれど、なぜ「私にとって」つまらないのかという理由も書いている。私にとってはストーリー展開に既視感があって結末が予想できてしまうとか、私が今まで読んだ作品に比べたら技術的に下手な水準だとか、私自身の人生経験に比べたらその作品に書かれている内容はとるにたらない事だとか、作品に何かしらつまらない理由があるからボロクソに言うのであって、作家が嫌いだからボロクソに言っているわけではないし、その作品を面白いと思う人を全否定しているわけでもない。あくまで「私にとって」はつまらないのであり、傑作だの名作だのというあおり文句にだまされて貧乏人が貴重な金と時間をつまらない作品に費やしたストレスをどうにか発散しないとやられ損だぜやってらんねーぜちくしょーふざけやがって金返せこのやろーと思うのでボロクソに文句を言うのである。貧乏でない人には一週間分の食費相当の2000円を費やして食えもしないごみ単行本を買って不毛な読書で2時間を無駄にしてしまった怒りと悲しみはわからないだろう。
若くて経験が乏しいときだからこそ面白いと思える作品もあるけれど、大人になるということは自分の中の稚児を殺すということである。幼児性を捨てることで精神的に成長していくわけで、幼稚だったころに好きだった作品も成長と一緒に葬り去らなければならない。子供のころに好きだったアンパンマンやドラえもんが大人になると面白くなくなるように、大人には大人にふさわしい作品がある。
かつてケータイ小説がブームになったときに『恋空』や『Deep Love』を絶賛して感動していた若者たちが中年になってもそれが傑作だと言おうものならろくに本を読んでない幼稚な大人だと馬鹿にされるだろう。いま大ヒット中の『君の名は。』を絶賛している若者たちも、30年たって中年になれば昔は幼稚なアニメに入れ込んだもんだねと恥ずかしく思うようになっているかもしれない。ヒット作というのは時代の流れとともに忘れ去られて懐かしむものであって、傑作として生涯崇拝するようなものではない。

●大人にとって面白い作品とは何か
私は高校生の時にはミステリにはまったのだけれど、大人になってからは面白いと思えなくなって、本棚を整理する際にミステリは読み返すこともないと思ってごっそり捨てた。いくらプロットやトリックに凝っていても、真善美の要素がなく、感情的要素も安っぽい殺人の恐怖や悲しみがあるだけで、もはや私にとっては面白くないのだ。高校生のときにはミステリを面白いと思って少ない小遣いで百冊くらい本を買って熱中したけれど、その種の面白さは田舎で退屈していた高校生の私にとっては必要だったけれど、大人になった私には必要ないのである。
大学生になってからは純文学を読み始めたものの、これも大人になった私にとってはつまらなくなった。純文学では話題づくりのために若い作家が新人賞を受賞することが多くて、作家の人生経験が浅いので作家性が乏しく、哲学や文学理論に詳しいわけでもなくて技術水準が低く、真善美の考察も浅くて死や性のテーマをあざとく表現して、なおかつエンタメほどプロットが練られているわけでもなく、どこをとってもつまらなくて見所がないような作品が多くなった。図書館にいけば無料で文芸誌が読めるけれど、無料でもいらないどころか時間の無駄と思うようになって純文学への興味がなくなった。期待するような新人もいないし、新しい文学理論が出てくるわけでもないし、好きな作家の新刊や未読の古典を読む以外ではもう純文学は読まなくてもいいやと思っている。
田舎で退屈をもてあまして、もっと面白い作品を求めながら小説と漫画とアニメと映画とゲームに漬かって大人になった今となっては面白さに耐性がついてしまい、ちょっとやそっとの工夫じゃ面白いと感じられなくなってしまった。では海原雄山並みに審美眼がひねくれた私のような口うるさい大人にとってはどういう作品が面白いのか。他の人にとって何が面白いかはわからないので、あくまで私にとっての作品の面白さを考えることにする。

まず芸術的要素が一番面白い。生きることや死ぬことはどういうことか、神はいるのかという真善美に関するテーマは容易に決着がつかないがゆえに考える余地がある。私は何かについて自分で考えること自体が面白いので、考えるきっかけをくれる作品はそれだけで十分面白いし、自分の考えが及ばない部分を作家が掘り下げているといっそう面白い。子供のときは難解でつまらないと思うような真善美のテーマが大人になるとかえって面白くなった。そういう点では、別に小説や漫画のような物語形式である必要はなく、哲学書やエッセイでも私にとっては面白いものでありうる。
次に面白いのは作家的要素である。真善美をテーマにするにしても、作家独自の思想があるといっそう面白い。たとえばトルストイは独自のキリスト教の解釈を持っていて、真善美を独自の観点から掘り下げるところに他の作家との差異があるから面白い。ヘミングウェイは各地の戦場や革命に出張して釣りと狩りでアフリカとキューバを遊びまわって4回結婚したユニークな経験を背景にしたうえで戦争とか恋愛とかをテーマにした作品を書くので面白い。ヒット作のコピーのような作品はそれ自体はそれなりに面白いかもしれないけれど、作家性がない作品は得るものがないし、暇つぶしにはなるだろうけれど金を払ってまで見る価値はないし、頑張ってアイデアを出した元ネタのほうを応援したい。
それから知的要素である。大人になったといっても知らないことはたくさんあるので、知的好奇心を満たしてくれる作品は面白い。プロットが面白いに越したことはないけれど、プロットの面白さより特殊な業界の知識を教えてくれる物語は面白いし、私とは別の時代や別の国を生きた偉人や変人の伝記や史実も面白い。たとえば『ゴールデンカムイ』は刺青人皮探しのメインプロットはどうでもよいけれど、アシリパさんのアイヌの知識が面白い。SFに描かれる近未来のように現実世界の延長線上にある世界はどういう科学技術を使うのかとか、未来のシミュレーションだとかで知的好奇心を刺激して面白い。逆に架空のファンタジー世界だと知的好奇心は刺激されなくなった。子供のころはファイナルファンタジーとかドラゴンクエストとかのファンタジーの物語は好きだったのだけれど、大人になってからは現実世界とまったく接点がない異世界が舞台だと、どんなに世界観の設定を作りこもうが所詮は誰かがつくった想像にすぎないのでつまらないと思うようになった。
感情的要素については、登場人物が主人公補正がかかった魅力的すぎる美男美女だとかえってあざとくなってしまうし、平凡な人物の面白い物語もありうるので、リアリティのある人物像であればそれだけで十分魅力がある。感情表現もリアリティを損なうような不自然な感情表現でなければどんな感情が描かれていようが割とどうでもいい。お涙ちょうだいものだとか家族愛の強調だとかで、これ見よがしに感動を押し付けてくるやり方はかえって興ざめするので、作家の作為が見えないような形で自然っぽく感情を表現されていればそれなりに面白い。
技術的要素はつまらなさの判断基準にはなるけれど、超絶技巧や最新技術を使ったところであまり面白さには寄与しない。作品の世界観が崩壊していないというのは最低限の技術的欲求だけれど、それは市販の作品は当然クリアしているべき水準である。最新技術を使ったからといって劇的に面白くなるわけでもなく、古い技術で作られた作品でも十分面白いものがある。『abさんご』のように新しい技術を使ったことだけが売りの作り手の自己満足のような小説はつまらない。ゲームでもグラフィック性能がよくなれば面白くなるというわけでもない。ロックマンはファミコン版とフーパーファミコン版とニンテンドー64版を遊んだけれど、64版の3Dのロックマンは操作しづらくてかえって面白くなかった。映画だと『インターステラー』が最新の科学技術を基にしてリアリティある設定でのSF世界を展開しているけれど、SFマニアでもない限り視聴者の理解が追いつかないので、あまり面白さにつながらないどころか時間と空間の状況の理解が難しくて見るのをやめる人さえいるかもしれない(私はなんで本棚に行ったのかよくわからなかった)。ガンダムとかのたいていのロボット系アニメは科学的なリアリティはないけれど、だからといって面白くないわけではなく、逆に科学的にいろいろ検証してリアリティを出したからといってそれだけで作品が面白くなるというものでもなく、想像力があるからこそ面白いという場合もある。

●面白さについての批評のすすめ
というわけで私は私なりに面白さ、つまらなさの判断基準ができたけれど、私の判断基準は当然他の人の判断基準とは違う。このページを見た人も、ある作品を賞賛するにしろ批判するにしろ、自分なりの判断基準で面白いと思う根拠やつまらないと思う根拠を言えるようになってほしい。毀誉褒貶が入り乱れて作品についての議論が活発になるほど作品に対する理解がすすむだろうし、そうやって作品を批評し続けていくことで、相対的に作品を批評している自分自身の価値観が徐々に浮かび上がってくる。
批評はそれを読む他の誰かに役に立つこともあるかもしれないし、役に立たないかもしれないけれど、批評をした自分自身にとっては役に立つ。自分にとって何が大事なのかという自分の価値観が自覚できるようになるし、批評を続けていくと過去の自分と現在の自分の価値観の変化にも気づくようになる。このブログの古いほうのポンコツレビューは考えもまとまらないまま漠然と批評していて人に見せるようなものではないけれど、何年か読書録を書き続けていたら、ある程度自分の考えをまとめて書けるようになった。このブログではアフィリエイトリンクを張っていてもたいていの本はボロクソにけなしているので年に一冊くらいしか本が売れなくて全然儲かっていないけれど、儲けるためにやっているわけでもないし、自分の価値観を自覚できて文章力が向上したという点では私にとっては十分な収穫である。
最近では一切の作品批判を許さない信者みたいな人たちがいるけれど、じゃあお前が作ってみろという批評に対する批判は作品の理解につながるわけでもなく不毛である。そもそも「自分にとって」面白いか、つまらないかというのは「他人にとって」は関係のない話である。つまらない作品に対してはつまらないと自信をもって言ってほしいし、作者もファンもつまらないという批判を恐れるべきではない。万人が賞賛するような作品はないし、誰かがつまらないと批評したところで、面白いと思っているファンが支えればいいだけだ。作者が自分の作品を売る相手のマーケティングができているなら、その購買層から支持を得ていれば、それ以外の人からぼろくそに批判されたところでたいして問題ないはずである。それにある作品を安易に傑作扱いしてしまって誰からも批判されなくなると、その作品を作った作家はそれで満足してそれ以上に優れた作品を作る伸びしろを失ってしまうし、それは作家にとってもファンにとっても不幸なことである。
批評するときに巷で人気の作品をボロクソに批評するよりは適当に褒めておいたほうが敵を作らずに済むし、アフィリエイトも儲かるかもしれないけれど、それをやってしまうと自分自身を裏切ることになる。私は芸術作品の鑑賞は個人と作品との価値観の対峙だと思っているので、世間の評価に合わせて自分を価値観を裏切るような感想をでっちあげるのなら、そもそも作品を鑑賞する意味がないと思う。皆が傑作だというから自分も皆に合わせて面白さをわかったふりをして傑作だと思わないといけないということはないので、自分にとってつまらないと思うなら世界を敵に回してもつまらないと言うべきである。あるいは自分の無知や経験不足が原因で面白さがわからなかったとしても、自分の無知と経験不足を自覚するためにもつまらないと言うべきである。逆に世間がつまらないというような作品でも自分にとって面白かったなら、自分がその作品のファンを増やしてやるんだという気概を持って堂々と面白さを語るべきである。

●面白いコンテンツがあると人生が面白くなるよ
小説や漫画など値段をつけて売っている作品は当然値段相応に面白くあるべきだけれど、無料で手に入るコンテンツもなるべく面白くするべきだと私は思う。無料なんだからコンテンツの質が悪くてもいいというわけではなく、つまらないコンテンツが検索に引っかかると他人の時間を無駄にする。
食事の写真を載せて今日はこれを食べたというだけのブログはつまらないけれど、食材がどこ産で云々とかのエピソードがあれば知的な面白さがあるし、シェフや一緒に食事した人との交流があれば感情的な面白さがあるし、レシピや作り方のコツの情報があれば技術的な面白さがあるし、たかが食事でもそこまで面白く書ければ立派なエッセイである。自分が生きた人生の一場面をネットに残すのだから、そのくらいの手間と時間をかけてもよいだろう。手間と時間をかけるのを惜しむようなコンテンツならそもそも本人にとってもあまり価値がないものだし、他人に見せるようなものではないのでネットに公表しなければいい。
企業でもSNS担当が業務として淡々とコンテンツを更新しているところがあるけれど、担当者本人が面白いと思っていないコンテンツはユーザーにとっても面白くない。担当者の姿や考え方が見えず、自社の商品を高評価したツイートをただリツイートするだけのツイッターアカウントなんて存在価値がない。企業の宣伝になるどころかつまらない会社だなあと思われて、企業とユーザーの双方にとって時間の無駄である。
今まで面白さが必要とされなかったものを面白くすることが新しいビジネスの開拓にもなるので、ビジネスマンこそ面白さに敏感であるべきである。たとえばご当地マスコットキャラクターは今までは単なるかわいい記号として扱われていたけれど、ふなっしーはしゃべって暴れて感情表現をして、ねばーるくんはきぐるみが伸びたり表情が変わったりする技術的なギミックがあって、その面白さで他のただかわいいだけのマスコットキャラクターとの差別化ができて人気になっていて、そのぶん宣伝効果がある。
神社や寺は過疎化や宗教離れで維持管理が難しくなっているけれど、面白くすることで話題になって人が集まったりする。どれも似たり寄ったりの神社や寺は今までは歴史とか建築とか仏像とかのマニアックな要素でしか差異化されていなかったけれど、鷲宮神社や聖天宮はコスプレ会場になっているし、秋葉原神社はフィギュア供養をしていて話題になっている。あるいは三峯神社のように限定品の白いお守りで差異化している神社もある。寺でもプチ断食やプチ修行を体験できたり、精進料理教室があったりする。面白そうだから正月以外にも神社に行ってみようか、檀家じゃないけど寺に行ってみようかという観光客が増えれば町おこしにもなる。
老人ホームではレクレーションやリハビリに遊びを取り入れていてアーケードゲーム機を置いているところもあるし、ゲームセンターは暇な老人のたまり場になっているし、老人がポケモンGOにはまって歩くようになって健康になった。マスコミは一時は少年犯罪を無理やりゲーム脳のせいにしてゲームを批判したのに、ゲームが認知症予防に役立つとなったらマスコミは手のひら返しした。
円安で日本に来る外国人旅行者が増えたけれど、嵐山の竹林とか白川郷とかの日本の原風景が人気になっている。清少納言が枕草子で景色の移り変わりにいとをかしといったけれど、それをいまや外国人が体験している。きちんと管理して保存していれば景色でさえ面白いコンテンツになりうる。
日本人は子供のころは勉強漬けで、大人になると仕事に人生の大半の時間をとられていて遊ぶ時間が少ないけれど、そのぶん面白さへの潜在需要はあるはずである。論語に「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」という言葉があって知好楽として知られているけれど、仕事でも勉強でもスポーツでも遊びでも何をやるにしてもただストイックに淡々とやるよりも、面白さを見出して楽しんだほうが人生は充実する。小説や漫画や映画やゲームは時間の無駄で仕事の役に立たないと切り捨ててしまうのはもったいない。

私は貧乏でも孤独でも生きるのが面白いと思っているから生きているけれど、私より裕福な人が人生に飽きて自殺したりする。おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものは心なりけりという高杉晋作の句があるけれど、人生を面白くするのは自分次第である。資本主義の現代社会を生きている人は金儲けにばかり熱心だけれど、投資で損したら新小岩に行ってしまう。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。金儲けだけでなく面白さにもっと敏感になったら、たぶん人生は面白いよ。

2018/11/27 三角猫
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(*‘ω‘ *)ニャー


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